フラメンコは文化
親愛なる皆様
こんにちは。お元気ですか。
先日、
土曜の昼には、関西では吉本新喜劇を放送している、
というお話を、書きました。
( こちら )
ああいう風に、週末のお昼などにのんびりしていると、
スペインの空気感のようなもの、
小さい頃のこと、などを、ふと感じたりします。
皆さんも小さい頃から、
なんか知らんけど、できること、
なんか知らんうちに、覚えてたこと、できてもーてたこと、
そういったこと、ありますでしょうか。
どこどこの地域では、全員泳げる、
どこどこでは、全員、土地の民謡が歌える、
どこそこでは、全員、郷土料理のひとつが作れる、
とか。
その地域の知恵や、教育、継承活動などもあると思いますが、
それが、わたしは、文化のひとつではないかと思います。
(いち個人の考え方です。)
女子サッカーが文化に、と、
ある選手が言われていたことを思い出しますが、
あれは本当に素晴らしい言葉だと、わたしは思いました。
当たり前のようにできること、
人々もそれを当たり前のようにわかること、
それが文化というものではないかと思います。
例えば、大阪の小学生、
ひとり、話を聞いてみたとしても、
たぶん、それなりにオモロイこと言いますよね(笑)
なんか知らんけど、
ふたりおれば漫才みたいになるし、
お笑いの批評なんかも、おとな顔負けで、
的確なコメントをしたりする。
(皆が皆、そうではないかもしれませんが、
確率は高い気がします。)
その、
子どもでも、お笑いの良し悪しなり、
好みなり、方法などが、ちゃんとわかっている。
そういう、地域性から、草の根から、
お笑いが、にじみ出てくる。
それが、お笑い「文化」の高さ、です。
一方、スペイン、アンダルシア地方。
(フラメンコはスペイン全土の文化とは言えない部分もあります)
その辺の人が(笑)、普通に*セビジャーナスを踊れる。
マダムも紳士も子どもも、習ったわけではないけれど、踊れる。
(拍子など、日本人にはまぁまぁ複雑だとわたしは思います。)
ここで、例えば、日本の盆踊り。
あれを見て、
「ああ、わたし、とてもじゃないけど、踊れない」
と、私たち日本人は、おそらく思わない。
よう知らんけど、輪に入れば、見様見真似でなんとか、、
と思うことが多いでしょう。
(保存会などは別のお話)
私たちにとって、盆踊りは、大変なものでも、
はてしなくむずかしいものでもない。
それほど、知らぬ間に自分に浸透しています。
それが、文化だし、文化の「違い」、だと思います。
戻って、セビジャーナス。
みんな踊れるけれど、
じゃあ、だったら、フラメンコもすべて踊れるか、
というと、ちょっと話は変わってきます。
子どもでも、
セビは踊れるし、フラメンコの良し悪し、
好きなアーティストの好み、もはっきりあるけれど、
かと言って、
誰もが小さい頃からギターが弾けるか、
というと、これも勝手が変わってきます。
大阪の小学生だれもが、漫才をキッチリできるか、とか
そういう範疇に入ってくると思います。
文化というのは、
例えば、ひとつの地域で、
たくさんの人がそれを愛していたり、できたり、わかったりする中で、
その土壌があった上で、
専門的な人材も生まれてくる、発展してくるのだ、と思います。
そして、ここにひとつ落とし穴があって、
そうやって、
地域や生活文化に根ざして、文化は発展しますから、
生活様式や何かが変わると、
発展しない、または、簡単に廃れてしまう、
という、危うさがあります。
ここ100年でも、生活様式は目まぐるしく変化しましたから、
知られなくなった文化もたくさんあるかもしれません。
そして、
昨今の、いろんな世間の状態により、
現在あるものでも、気になる今日この頃です。
* セビジャーナス( Sevillanas ) :
スペイン・セビリア周辺地域の民謡や踊りの1種