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悲しみで大地を蹴る時・フラメンコ

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  親愛なる皆さま 今日は、雨。 そして、寒いですね。 寒暖差にお気をつけてお過ごしください。 風薫る、5月4日、名古屋にて フラメンコのイベントに、出演させて頂きます。 ピアメンコ フェリア エン ナゴヤ https://www.instagram.com/piermenco_feria_en_nagoya/ 有料ステージでのフラメンコ・ライブや、(私もソロで出演させて頂きます😌) 無料広場での、ワークショップやイベント、販売など、 盛りだくさんの、フェスティバル・お祭り、みたいなものですね。 理屈もなく、ただただ楽しもう! それで、良いです。 そうです、そうなのです。  💃  🌹  ✈ 私は、2001年の秋に、スペインのセビリアへ フラメンコギター留学に行きました。 フラメンコの専門学校です。  * ・歌(カンテ)科 ・踊り(バイレ)科 ・ギター科 という、3つの学科がありまして、 学校も、寮も、 毎日が、全ての時間が、一瞬一瞬が、 フラメンコ・三昧でした。 そんなある日、踊りのコースの、 地元の生徒さんだったか、アシスタントの方だったか、 (忘れてしまいましたが。。上級者でした。) とにかく、お顔立ちも、 ノーメイクでも、ザ・フラメンコ!(?笑)のような、 本場の、 おそらく生まれた時から、フラメンコを生きているような女性が (かなり若かった、20代前半か、10代かも。) こう、話してくれました。 「 ある少女が、お母さんに先立たれて、   悲しくて、悲しくて、悲しくて、こらえきれなくて、   泣きながら、大地を蹴った、激しく蹴った。   それが、フラメンコの、始まり。」 と。 ほんとに? と、 私は、目を丸くしました。 とっても衝撃的でありましたけど、 そうか! そうだよね。。 と、 妙に納得も、しました。 その一言を、地元の方から、聞けたことだけで、 留学して良かったとさえ、思いました。 私のスペイン語・読解力に、間違いはあるかもしれません、(大いに・・) 本当にそう言ったのか、 長い年月の中で、私の記憶が、曲がってしまっているかも、しれません。 ( 覚え違い、取り違い、よくあります。。) 諸説の一つ、 として、 私の心の中に、ずーっと(20年は過ぎてます。。。) 今もそっと、入れています。 悲しくて、悲しくて、大地を蹴った。 そう、 そうじ...

大震災を思う時・祈りの音楽

  親愛なる皆様 わたくしの、奏でる音楽の定義の一つに、 こういうことがあります。 ある日、 幼き子どもが、やってきて、 わたしの目の前で泣いているとしましょう、 心細い思いをしているとしましょう。 そういう子どもに、 1曲捧げるとしましたら、 どういう気持ちで演奏するのか。 その子が全く知らない曲や、フラメンコであっても、 どういう心持ちで、わたしは演奏するのか、 それが、わたしの曲作りのテーマでもあります。 泣いている子ども、(または大人の方でも) その方々に、恥ずかしくない、 何か言葉をかけるなら、 満腹にはならない、 身体も寒いかもしれない、 心が温まるには、、 そんなことできるのだろうか、 何かを伝えるには、 どんな音なのか、 どんな音楽なのか、 どんな音色なのか、 音に心を込める時、 曲を生み出す時、 弦をはじく時、 念頭にあることの一つです。 心より祈りを捧げます。

今年8月6日のできごと・その② / ‘グローバル・ピース・コンサートin OSAKA 2022’へ

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  親愛なる皆さま 8月6日のできごと、その②です。 (その①は、 こちら ) 素晴らしく心地の良い昼下がりを過ごした後、 夜には、大阪で開催された、あるコンサートに伺いました。 グローバル・ピース・コンサートin OSAKA 2022 in 大阪阿倍野区民センター フルート奏者の友人・橋本恵菜さんが出演ということもあり、  ( 橋本さん情報・CDなど →  こちら  ) お知らせを聞いた時から、注目していたのですが、 心動かされていたことのもう一つは、 特別出演のギタリスト・石原 圭一郎さんが 演奏されるという、被爆ギター。 被爆ギターという楽器の存在を知ったのも 今回が初めてだったのですが、 爆心地から3kmで、 ケースに守られ、かろうじて形をとどめていたけれど、 弾ける状態ではなかった、というギター。 まず、そのこと(楽器が残っていたこと)に、 最初から驚き、 そして、いろいろ情報を見聞きしてゆくうちに、 そのギターが修復されて、よみがえったこと、 事前の告知動画などで、そのギターの繊細な音色に驚き、 当日、目の当たりにしたこと、音色を聴けたことに、また驚き、 そんな、驚きの連続だったのでした。 テレビニュースで取り上げられている動画 は こちら ↓  わたしもギター弾きですので、 毎日、ギターという楽器を見ています。 その繊細さと儚さ、また、たくましさも、身近で感じています。 でも。 まず、ギターという楽器がその衝撃に耐えていたのだ、 ということが、 やっぱり、奇跡なのではないか、と、思えてくるのでした。 そして、長い間、無事に保管されていたこと、 また、修復されたこと、 ギタリストさんの手で奏でられていること、 それを私たちも今、聴かせて頂けたこと、 どこをとっても、 ミラクルの連続のように感じられます。 ここに至るまでにも様々な方の 願いと祈りが、あったことと思います。 平和の連鎖だと思います。 貴重な機会を頂けたこと、友人に感謝と、 このような状況下で、誰1人欠けることなく開催できましたと、 涙ながらにお話されていた歌の方のお言葉に、 熱い想いも感じながら、 意義のある、8月6日を過ごせましたこと、 ありがとうございました。 もう一つ、 この日は他にも素晴らしい出会いがあったのですが ✨ そのお話は、またいつか。。(か、その内に。。?...

今年8月6日のできごと・その① / 生演奏 in pasta’ Passo a Passo’さん

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  親愛なる皆様 お盆明け、いかがお過ごしでしょうか。 夢か、希望か。。 そして、今日は 8月15日。 私たち日本人にとっては、大きな意味のある日でもあります。 夏休みの思い出、 振り返ること、、 10日ほど前の、8月6日。 兵庫県は猪名川町のパスタ屋さん、 Passo a Passo さん にて、生演奏BGMをさせて頂きました。 ソロギターの2本で、お邪魔させて頂きました。 🎸🎸 少しのどかで、都会半分・田舎半分のような とっても心地よい地域です。 最初は静かにスタートしましたランチタイムも どんどんとお客様も来られて、 にぎやかなお食事時と、なりました。 ご一緒させて頂いた、 ギタリストさんの奏でる 名曲の数々に、私も耳を傾けながら、 ( 順番に弾かせて頂いた。) お客様が、お話しながら、美味しそうに、お食事される空間。 小さいお子様連れのファミリー、 3世代かなと微笑ましく思えるご家族、 女子会、男子会、混合?、いろいろ、 ふと窓の外に目を向けると、綺麗な青空、 風がそよそよと吹いていて、緑も生い茂り。 なんて、素敵な時間 😌✨ 思いを馳せること、時空を飛んで。 この8月6日に、 美味しいお食事、テキパキ動くスタッフさん、 楽しそうなご家族、ご友人、お仲間連れの皆さま、 私は、ギターをポロポロ ♪ 隣のギターさんも温かい音色、 これ以上、 幸せなことって、あるのでしょうか。 平凡な日常、 食事ができて、皆様がいて、音楽、自然、、 これ以上の幸せが、あるのでしょうか。 と、 そんなことを思いながら、 わたしのギターも、 めいっぱい、喜んでいるようでした。 素晴らしい時間を、ありがとうございました。✨ 店長さん、お店のスタッフの皆様、 お食事中に耳を傾けて下さったお客様、 共演ギタリストさん、 ありがとうございました。 pasta Passo a Passo ( ぱすた ぱっそ あ ぱっそ )  https://pastapassoapasso.owst.jp/ 兵庫県川辺郡猪名川町紫合 能勢電鉄日生線 日生中央駅 徒歩34分 駐車場12台あり その後の行き先は、 その② へと続く。。

鳥たちが映えます。祈り。

  親愛なる皆様 暖かくなってきましたね。 お元気で、いらっしゃいますか。 先日の、神戸は新長田・鉄人広場での野外演奏は、 お天気は、良かったのですが、風も強く、 弾いているうちに、どんどん手先が冷えて、 私の、指先・体感史上、最も寒かったステージだったと思います。   👐 でも、大変、楽しかったです。 😃 皆様、ありがとうございました。 さて。 鳥たちの季節ですね。  ☀  🐧 気候に、映えます。  寒いうちからも元気に鳴いているのですけれど。。 🐦💧 今日は、いろいろな思いが、強まる日でもあります。 そんな鳥たちの声を聞きながら、 さまざまなことに想いを馳せ、 平和と、愛と、安全と、安心を、 心から、お祈りしたいと思います。

高校生でした・大震災

  親愛なる皆様 阪神・淡路大震災の時、 私は、高校生でした。 阪神地区でも、大阪寄りに住んでいましたので、 家屋の倒壊も、怪我なども、ほとんどありませんでした。 揺れは、激しかったですが、 激震地が受けたものには、ほど遠いのではないかと思います。 ライフラインは、割合に早く復旧をして、 ガスは、少しかかったように思います。 その頃、家ではいつも灯油ストーブも使っていたので、 それをうまく活用して、 親が、食事などの煮炊きをしてくれていました。 思春期で今よりもずっと冷めた高校生でしたので、 淡々と、生活をしていたと思います。 苦労した、という記憶も、あまり、ありません。 ただ、校内でも、東西や、南北で被害の状況も違い、 その後の、学校生活や行事を行うにあたって、 温度差というものが、あったように覚えています。 「家が傾いているのに、遠足なんて行けるか」 「高校生の思い出に、こんな時だからこそ」 今のコロナでも時折、感じますが、 どちらの思いにも、大変な一理が、あります。 状況や環境によって、温度が生じる、 ということを、その頃に目の当たりにしたように思います。 震災の日の朝、最初の揺れの時は、 ただただ布団にくるまって、早く鎮まれと思っていました。 その時は、怖さより、願い、のほうが強かったと思います。 ただ、それから、昼が来て、 どうやらとんでもない被害らしいと ラジオなどで、わかるようになり、 そして、余震というものがあり、 まだ揺れる可能性が、あることも知って、 その日から、夜に目を閉じて、眠って、 次の朝、目覚めないこともあるのかもしれないと、 今晩が最後かもしれない、と 毎日、感じるようになりました。 途端に、恐ろしくなりました。 人って、こういうことで亡くなるんだ、 ということも、初めて知りました。 高校生でしたので、行動範囲も狭く、 伊丹や西宮や神戸、淡路に、 普段から行くことも少なかったので、 被害の大きさや深刻さは、 報道で、ほとんど知りました。 後々に、大きくなってから、 大学や、仕事で出向くようになってから、 (3年後〜10年後などに、) あの駅は倒れていた、とか、 救助をした人、 家が全壊、半壊、 友人を失ったり、 年齢的にも、受験どころではなかったり、 大学の先生が、ケアに尽力されていたり、 そして、また、産まれたばかりであったり...

大丈夫でしたか、じしん

  親愛なる皆様 お元気ですか。 地震の影響などは、ありませんでしたでしょうか。 こわいですね。 今後も、お気をつけて、お過ごしください。 土の下のことも気になりますけれど、 土の上のこと、生活や、建物、インフラのことが、 やはり気になりますね。 都会や、都心部であれば、尚更です。 私の身近で、グラっと揺れて、 頭では、これは大丈夫、 と、わかっていても 心臓は、いつもドキドキします。 それは、もう、 阪神・淡路大震災の余震の時からではないか と、思います。 一瞬、揺れて、これは大丈夫、と 思っても、思えても、 すでに心臓は、ドキドキと いつもより、少し速い鼓動です。 小さな揺れでも、自分が体感した時は、 それは、今も変わっていない気がします。 皆様の、安全、安心、 快適な生活を、 心よりお祈りしています。

Nueva York・ニューヨーク

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  親愛なる皆様 今日は、9月11日。 思い出すこと、20年前。。 アメリカで、大変なことが、起こりました。 その次の月の、10月に、わたしは、スペインへ、飛びました。 ああいった状況で、飛行機が伏すことがあるなんて、 思いもしていなかったので、旅立ちの時は、震えました。 初めての長期の留学でしたので、ほんとに勇気が、いりました。 今から思えば、よく行ったと思います。 あの時から、世界が変わった、と言われますけれど、 わたしも、世界に目が向いている時でしたので、 日常的に考えることが、変わったと思います。 遠巻きにも、大きく変わったと思います。 その頃、わたしは、学生は終わった頃で、 英語圏への留学を、目指している友人なども 周りに、おりました。 ほんとにあの時は、全員が、黙り込みました。 静かに、祈りを捧げたいと思います。

平和への祈り・アンパンマンと職員室

   親愛なる皆様 お元気でいらっしゃいますか。 こちらは、相変わらず、暑いです。 台風も近づいてきました。 今日は、静かにお話を、したいと思います。   🔔 今日は、8月9日。 小学生の頃、夏休み前ぐらいになると、 学校で、ヒロシマ・ナガサキに関する展示というものがありました。 夏の期間だけ、廊下の掲示板や壁の一角に、 せんそうの時の、資料や写真が、貼り出されるのです。 その当時の記憶は、低学年で、 細かな内容は、はっきりと覚えていないのですけれど、 職員室か、給食室か、または、靴箱だったか、 そこを、その廊下を通らねば、行けないところ、 という場所に張り出されていましたので、 必ずと言っていいほど、目に入りました。 小さかったですから、リトル桃子・6〜8歳?、 もう、それはそれは、おっそろしくて、おそろしくて、 目をつぶって、(展示の意味ないですが…)、 走り抜けていたと思います。 そして、その目をつぶって、という記憶、 おっそろしくて、という、思いのようなもの、 それは、今でも、残っています。 覚えています。 何がこわかったのか、本当のところは、 子どもの時の、怪談をおそれるようなところも あったような気もしますけれど、 そして、その時は、本当に意味を理解できていたのか、 疑問符的なところも、ありましょうけれども、 今となっては、その教育に、感謝しています。 学校の方針と、先生方の熱意(で、あったのではないかと思います)によって、 正面から、突きつけて頂いた、 厳しさを持って、はっきりと、しっかりと、 伝えて頂いた、と、感じています。 子どもながらに、せんそうは、おそろしいもの、 ということが、理解できたような気がしていることに、 ありがたかった、と考えています。    🏫 アンパンマンの作者、やなせたかしさんが、 何かのインタビューで、その昔、 「敵でも味方でも、関係なく、子どもの上に、バクダンが落ちるのです」 というようなことを仰られていて、涙が出ました。 本当にそうだと思いました。 たくさんのいのちと、無念と、愛情に、 平和への祈りを、捧げたいと思います。

熱海というところ

親愛なる皆さま 大変なことが起きましたね。 熱海といえば、正直に申しますと、あまりご縁がありませんでした。 憧れはあるけれど、行ったことはなく、 自分が西日本の者でもあるので、土地柄もあまり身近でありません。 最近では、 脚本家の橋田壽賀子さんがお住まいだったとのことで、 記憶に新しかった、という感じです。 (地域は違うのかもしれませんが) その橋田さんは、すさまじい作品を書かれるお方、 ということで、ひとりの視聴者として遠巻きに大リスペクト、 芸術系・職業婦人のパイオニアとしても、尊敬の眼差しです。 代表作の、おしん、は、実際の記憶にありますけれど、 いつの記憶かは定かでなく、、(再放送もたくさん、、) 初回放送は、1983年ということで、わたしは、5歳です。 はたして、その時の記憶なのか、、 (リアルタイムで見てた気もしますが、) でも、ずっと、おしん、という作品は、知っていました。 その感覚も、不思議なものです。 物心ついた時から知っていた、と、言えるのではないでしょうか。 ただ、知っていたのだけど、 最初から最後まで、ちゃんと見てたのか、 子どもなら、内容もよくわかっていないはず、、 案の定、 物語の最後のほうも、あらすじがどうなったのか、 実は、いまだに知りません。。 ですから、どういうお話なのか、 知っているようで、知らないのです。 でも、子役の方の、あのお姿は鮮烈に覚えている、 あの有名な、イカダに乗ってお別れするシーン、 あれが、ワンシーンでも流れると、いまでも泣きそうになります。 こうなると、わたし的には、もう理屈ではありません。。 頭では説明が、できないのです。 自分でも何がなんだか、わかりません。 そんな、文化的渦にひっくるめられ、 それと共に育てられて?、 (知らぬ間に、多大な影響を受けているということ、) そんな作品をお書きになった方がおられたところ、 そんな方が、仕事場になさっておられたところ、 どれだけクリエイティブに集中することができたのだろうか、 熱海は、たくさんの文化人の方も、ゆかりがあるそうですね。 わたしも、曲を考えたり、稽古で弾く時、 その「場」に、集中すること、できること、 というのは、とても大切だと感じています。 そういうところであるとしても、 今は、わたしは、安否だと思います。 とにかく、無事であって欲しい。 今日も、...