高校生でした・大震災

 

親愛なる皆様


阪神・淡路大震災の時、

私は、高校生でした。


阪神地区でも、大阪寄りに住んでいましたので、

家屋の倒壊も、怪我なども、ほとんどありませんでした。

揺れは、激しかったですが、

激震地が受けたものには、ほど遠いのではないかと思います。



ライフラインは、割合に早く復旧をして、

ガスは、少しかかったように思います。


その頃、家ではいつも灯油ストーブも使っていたので、

それをうまく活用して、

親が、食事などの煮炊きをしてくれていました。



思春期で今よりもずっと冷めた高校生でしたので、

淡々と、生活をしていたと思います。

苦労した、という記憶も、あまり、ありません。



ただ、校内でも、東西や、南北で被害の状況も違い、

その後の、学校生活や行事を行うにあたって、

温度差というものが、あったように覚えています。


「家が傾いているのに、遠足なんて行けるか」

「高校生の思い出に、こんな時だからこそ」


今のコロナでも時折、感じますが、

どちらの思いにも、大変な一理が、あります。

状況や環境によって、温度が生じる、

ということを、その頃に目の当たりにしたように思います。





震災の日の朝、最初の揺れの時は、

ただただ布団にくるまって、早く鎮まれと思っていました。

その時は、怖さより、願い、のほうが強かったと思います。


ただ、それから、昼が来て、

どうやらとんでもない被害らしいと

ラジオなどで、わかるようになり、

そして、余震というものがあり、

まだ揺れる可能性が、あることも知って、


その日から、夜に目を閉じて、眠って、

次の朝、目覚めないこともあるのかもしれないと、

今晩が最後かもしれない、と

毎日、感じるようになりました。


途端に、恐ろしくなりました。

人って、こういうことで亡くなるんだ、

ということも、初めて知りました。



高校生でしたので、行動範囲も狭く、

伊丹や西宮や神戸、淡路に、

普段から行くことも少なかったので、

被害の大きさや深刻さは、

報道で、ほとんど知りました。




後々に、大きくなってから、

大学や、仕事で出向くようになってから、

(3年後〜10年後などに、)


あの駅は倒れていた、とか、

救助をした人、

家が全壊、半壊、

友人を失ったり、

年齢的にも、受験どころではなかったり、

大学の先生が、ケアに尽力されていたり、


そして、また、産まれたばかりであったり、

という方々と、出会うようになりました。



播磨に来てからは、

震災から、さらに10年以上あとですが、

震災後に引っ越してきた人が、

かなりいたということも、知りました。





世の中は、未だ、

何もかも早いですが、(と、感じますが、)

早く済めば良いというものでも、

早く終わってしまうということでも、

私は、ないと思います。




時間が、かかることもあります。


そして、


時間がかかったからといって、

それが無かったことに、なるわけでもありません。



ただ、時間の中で、少しづつ、

癒されてゆくこともあると、

信じていたいです。




静かに、

祈りたいと思います。














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